一級建築士資格独学散歩道

一級建築士資格取得までの道のりを散文的に綴ります。

新国立競技場の隈研吾と伊東豊雄

 このブログに訪れるのは建築関係の方が多いのだろうと思っている。だから、今年物議を呼んだ、あのザハが設計したヘルメット、いや失礼、新国立競技場のその後の行方を追ってみたい。
 

 なんといっても、前回のザハ案が国民から総スカンを食らって撤回された理由は、その経済不合理性である。ほとんど目に止まる事のない上空から俯瞰したデザインのために、通常の予算の2倍のコストをかける必要があるのだろうか。庶民の目線から考えれば、夢の一軒家を購入するに際してもっとも重要なのが屋根の形状だ、と言っているようなものである。屋根の形状が美しいので、隣の普通の家が2千万なのに、4千万を払ってでも買いたいと思う人は日本全国を探しても一人か二人しか居ないだろう。

 そもそも建築は人々が雨風をしのぎ安全に生活できることが原点にある。そこにデザインというものが付加されると考えるべきだ。確かに、競技場のような生活を目的としない建築においてはデザインも重要な要素なのだが、機能性や経済合理性を犠牲にしては元も子もないのだ。
 東京オリンピック誘致の際は、コストをかけずに開催できるコンパクトな大会を目指すとしていただけに、ザハ案は全くもってお話にならないプランであった。目的や方針もなく、単に自慢できるものを作ろうというエゴイズムが奇想天外なザハ案の採用という結果をもたらしたと言える。
 
 そして、ザハ案を撤回した後に登場したのが、隈研吾と伊東豊雄の二つの設計案である。双方のデザインはよく似ている。よく似ているのは、そもそも競技場の主な機能を実現するデザインが、すり鉢形状という全く定型的なものだからだ。なにしろ、2000年も前に建造されたコロッセウムが現在もコンサートなどに使われているのである。すなわち、競技場自体はすでに2000年も前に完成されたデザインなのだ。
 もし競技場にデザインができる要素があるとするなら、周辺の外壁と屋根の形状くらいである。これも構造的な制約を考えると、幾つかのパターンしか成り立たない。そして、屋根形状の経済合理性を考えれば、それはトラス構造にならざるをえない。だから、屋根形状については、ほぼ同じ構造を採用することとなったといえる。

 さて、今回の二つのプランはともに共通点と、そして異なる点を持っている。共通するのはともに木材を使用している点だ。これは、日本建築士連合会が8月に発表した提言を受けてのことであろう。

 この提言に合わせて屋根に木材を採用したのは隈研吾氏のA案である。対して伊東氏のB案は柱に木材を使用している。

 
〓 B案:伊東氏の「内と外の連続性」
 
 伊東氏のデザインは、内と外の連続性を確保するために2層式スタンドとし、すり鉢状の構造体をそのまま外部に接する、いわゆるスケルトンとしてのスタジアムを構成している。外周部を遠方から見ると大きな白磁のすり鉢を木製の柱で支えているように見える。
 すり鉢のヘリと天蓋を支えるのは、幅が1.5m高さ19.5mの耐火集成材による巨大な柱である。さらに、スタジアムの上部は屋根トラスの形状により連続性をもたせている。 通常であればすり鉢の外周部は壁面でおおわれ、この壁面がスタジアムの内部と外部の境界面になる。伊東氏がその外周壁面を取っ払って、内と外が連続する空間を創り出した。そして、壁の無いすり鉢剥き出し形状がそのままデザインに生かされている。
 伊東豊雄氏は、「建築物の内部空間を外界から遮断するのではなく外に向かって解放することで自然と調和した空間を構築するべきである」と、書籍『あの日からの建築』で述べている。伊東豊雄の建築に対する思想は新国立競技場の設計にも生かされているようだ。
 
〓 A案:隈研吾氏の「負ける建築・小さな建築」
 
 一方、隈研吾氏もマスとしてのコンクリート建築を否定しいる点では伊東氏のコンセプトに近い。しかし、隈研吾がこだわるのは建築空間ではなく、その素材についてであった。建築物は、生物が細胞の集まりで機能しているように、小さな単位の共通の何かを結合することで構築されるべきだというのが、隈研吾氏の主張である。
 隈氏の設計するスタジアムは3層で構成されており、それぞれのコンコースの内装を木材の格子で覆うことでデザイン的に統一している。さらに、コンコースの外周部には植栽を用いることで、その外にある緑地帯との環境の継続性を保とうとしている。周辺環境の緑豊かな空間をスタジアムの内側まで連続させる試みといえるかもしれない。
 伊東氏の建築は、外部と内部との空間的連続性を実現し、緩やかに建築を具体化させようとするものであった。それに対して、隈氏は、建築を外部環境に埋没させることで、より積極的に外部との一体化を図ろうとしているようだ。
 そして、隈氏のデザインが伊東氏と明確に違うのは、スケールの単位である。隈氏の建築はあくまでもディティールにこだわっている。遠方から見た外観よりも、その建造物の利用者が内部で受ける印象を重視しているといえるだろう。

〓 安全性、ユーティリティーを重視するなら隈研吾
  経済性、表現性を重視するなら伊東豊雄
 
 結論を述べるなら、私は隈研吾のA案を押す。
 実は、2つの案の第一印象では、簡素化された構造体がデザインに生かされている点でB案が優っていると思った。しかし、B案の断面図を見ると、コンコースの階層が少なく、スタジアムの最上層の観客はトイレや避難の際のユーティリティーへのアクセスに問題が発生すると考えた。もちろん、観客席の最上層まで埋まるようなイベントはそうそうあるものではない。しかし、安全性を考慮するなら、避難口が自分の座る席のはるか下にあるというのは、人々を不安にさせるだろうし、実際に非難がはじまると出口に殺到する人数が多すぎるのではないかと懸念される。
 また、B案の木材の使い方にも疑問がある。巨大な柱に木材を利用するメリットはおそらく何もない。そもそも木材は大きな構造物には不向きな素材である。だから近代の大規模建築には木材が利用されず、国内の材木は余っているのだ。そのため、国交省や林野庁は直行集成材を後押しすることで、材木の利用を拡大しようと図っている。伊東氏の意図は大規模建築の構造材にも木材が使用できることを証明しようとしたのかもしれない。しかし、最大規模の公共建築物である競技場には、実験的な建材の利用はするべきでないと思う。
 
 A案では内部の壁面や天井に木材を縦に組んだ桟を多用している。木と紙の文化である日本の建築様式をアピールできるデザインだ。この点は、ある意味でザハなどの表現主義の対極にあるもので、伝統的な(言ってみれば日本人にとってはなじみがありすぎて面白みがないが、しかし外国人にはエキゾチックに映る)様式である。
 今回、どちらの案が採用されたとしても、ザハ案よりはましと云えるだろう。それでも「ザハ案がよかった」という人は、海外で建造されたザハ設計の建築物を見学するべきだと思う。そうすれば、彼女がデザインした建築物が日本では建造されていない理由が分かるのではないだろうか。
 人々は競技場で選手を見て感動したいのだ。競技場を見て感動したいのではない。オリンピックの主役は建築家ではなく、アスリートなのである。